松川村の歴史

明治22年の松川村誕生以来、
100年を超える歴史をさまざまな出来事と共に歩んできました。
先人たちの大いなる希望と夢とともに築かれた歴史は、
一筋の流れとなって、未来へと続いていきます。

近代から現代へ

 米づくりを中心に自給自足で堅実な発展を遂げてきた松川村にも、江戸時代後期になると貨幣経済が浸透してきて、外部との交易が活発になってきました。明治から大正時代には養蚕業が広まり、需要の安定した漬菜やじゃがいも、ねぎなどの商品作物の作付面積が拡大しました。

 大正5年には「信濃鉄道」が松本から大町まで開通し、松川も本格的な流通時代を迎えます。松川駅の利用者数は年々増加し、大正5年には28,370人の乗降客数であったのが、昭和40年には100万人を突破しました。しかし、その後は自動車の普及により、鉄道の利用者数は減少傾向にあります。

 昭和に入ると、世界恐慌の影響で稲作と養蚕に頼っていた村の経済は落ち込み、また日中戦争の開戦が村民の生活にも暗い影を落とすようになります。働き盛りの男性の多くは召集され、苦しい生活を打開すべく、大勢の人が開拓移民団に加わって新天地満州へと渡っていきました。

 戦後の農地改革により、小作農民の自作農化がはかられ、農村は大きく変貌を遂げます。戦後の食糧難の時代を経て、昭和30年代半ばからは農業の機械化が進み、兼業農家が増えてきました。40年ごろになると養蚕業が急速に衰退し、米も生産調整が始まって、代わりに果樹、畜産、園芸などが大きな伸びを示すようになりました。

 また、商工業も発展して都市化が進み、松川村=農業の村というイメージも変わりつつあります。近年は、オリンピック関連道路として北アルプスパノラマロードが整備され、また、安曇野ちひろ美術館やすずむし荘などの観光施設も充実してきており、観光産業を中心とした新しい村づくりが着々と進んでいます。

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